長く生きればこうした感慨は免れがたく訪れるもの、「来る日来る日が誰かの忌」というしみじみとした思いと「葱坊主」の取り合わせがおもしろい。
カテゴリーアーカイブ: 一句鑑賞
日が差して春の障子となりにけり 長谷川櫂
俳句の形の一つである。「何々して○○○となりにけり」、「日が差して」が原因、「春の障子となりにけり」が結果。単純に軽やかに詠むことが大切である。
石にのり秋の蜥蜴となりにけり 飴山實
菜雑炊ふたり暮らしとなりにけり 田村恒人
蔓垂れて秋の泉となりにけり 河村蓉子
妻入れて春の炬燵となりにけり 長谷川櫂
燗つけて恋のゆふべとなりにけり 松太
濡れて来し雨をふるふや猫の妻 太祇
猫の妻は、春、発情期を迎えた雌猫のこと。この時期、雄猫は雌 をもとめてぎゃあぎゃあと鳴き、人の安眠を妨げる。太祇の句の雌 猫、夜中に出かけて、明け方、雨の中を帰ってきた。体を震わせて 雨雫を払って、後は平然と眠りにつく。
朝の茶のかんばしく春立ちにけり 日野草城
かぐわしい朝茶が春の訪れを感じさせたということ。「立ちにけり」という強い切れが、茶の香りをいっそう引き立たせる。自分のごく身近なところに春は来ている、「立春、春立つ」はそんな季語である。
水仙や藪の付きたる売屋敷 浪化
「藪」は竹薮のこと。売りに出されている屋敷の一ところが竹藪になっている。その竹林の中に水仙が咲いているのかもしれない。上五を「や」で切って体言でとめたよくある形、しっかりした構図をもつが硬い感じも否めない。
寒卵即ち破(わ)つて朝餉かな 阿波野青畝
句の「即ち」は=(イコール)の役目をする。「雪即ち白い」「氷即ち冷たい」「火即ち熱い」というように。この「即ち」、イコールの役目をするが数式のように絶対的なイコールではない。多少のブレを持つイコールである。「寒卵」=「割って朝餉」もイコールならば、「寒卵」=「割らず眺める」(寒卵即ち割らず眺めけり)でもいいのである。つまり「即ち」を介してかなり強引に等記号を成立させる表現方法である。このイコールをなるほどと思わせれば「即ち」が効果をあげていることになる。「即ち」によって導かれるものが、「即ち」によって導くものの本質をぐいっととらえていればいいのである。「割らず眺める」よりも「割って朝餉」のほうがはるかに寒卵の本質に迫っていることは疑いない。いかに季語の本質に迫れるか、それが試される「即ち」である。
夏痩をすなはち恋のはじめ哉 正岡子規
青芒すなはち風の吹きおこる 長谷川櫂
白菜をすなはち縦に真二つ 北側松太
日脚伸ぶ
心なしか、日が永くなっている。冬至からもうひと月、この時期は一日に一分くらいづつ日が長くなっているらしいから、冬至から数えれば三十分くらいは日が伸びていることになる。
「日脚伸ぶ」という季語は、晩冬の季語、厳密に言えば二月三日の節分までの季語ということになる。これから節分まで日が伸びたとしても、冬至との差はせいぜい四十分くらいというところだろう。してみると、「日脚伸ぶ」という感覚は、三十分から四十分くらいの時間差の感覚にすぎない。それでも、日が伸びたなあ、という思いが否めないのは、夕方の四時から五時ころが日本人の活動の一番活発な時間と重なっているせいかもしれない。
たかが三十分の日脚でもありがたいのは、その先に春の「日永」があるがゆえ。雪国の冬は、むしろ、これからが本格的であるが、「日脚伸ぶ」によって、その先にほんのりと春が見えているのである。
選集にかかりし沙汰や日脚のぶ 高浜虚子
ひと〆の海苔の軽ろさや日脚伸ぶ 鈴木真砂女
日脚のび父の齢をひとつ越ゆ 飴山實
屑籠に反古があふれて日脚のぶ 松太
鳰かづきたる水へこみけり 長谷川櫂
「かづき」は「潜き」と書いて水に潜ること。今しがたまでその辺に浮いていた鳰が餌になる小魚をもとめて水中に潜ったのだ。水がへこんだように見えたのはほんの一瞬のこと、水面はたちまち平らになる。しかし、俳句を詠むものにとって、ほんのつかの間であっても強く印象付けられることがある。それがこの句の「へこみけり」であろう。切字「けり」は詠嘆の「けり」であり「発見」の「けり」である。「へこみけり」によって、鳰の潜水が波一つ立てない静かなものであったことが察しられる。(季語=鳰、季節=冬)
一軒家より色が出て春着の子 阿波野青畝
一軒家より出た色=春着の子、という俳句である。中七まで読み下して何のことか、ということになる。答えを提示するように、「春着の子」が座五におかれる。手品の種が明かされるような俳句でもある。
どの星も一つ年取り除夜の鐘 岩井善子
永劫を生きる宇宙もまた、ささやかに一つ年をとる。除夜の鐘が一つ一つの星におごそかに響き渡る。
水鳥のおもたく見えて浮にけり 鬼貫
逆接の俳句ということができる。逆接は期待した結果を裏切るというもの。この句の場合、常識が期待するのは「重たく見えて沈みけり」ということになる。「おもたく見えて浮にけり」が常識を覆している。
行灯を消せば鼠の年忘れ 丈草
人間の年忘れが終わって、今度は鼠の年忘れ、人間の食べ残しが鼠のご馳走である。
牛の尾の外はうごかぬ枯野かな 蓼太
繋がれた牛だろうか。流れる水も無ければ、鳥の姿も無い。動いているのは牛の尾だけ。おだやかな日和なのだろう。牛の尾を強調することで、広大な枯野が描かれる。
子の置きし柚子に灯のつく机かな 飴山實
柚子の置いてある机に灯がともったのだ。たった一個の柚子であろう。柚子の実もまた灯のようなもの。ほの暗い部屋のそこだけが異空間のように明るい。静物画のような一句である。
夜寒さや舟の底する砂の音 北枝
立花北枝は加賀小松の人。元禄二年、金沢を訪れた芭蕉に師事し加賀蕉門で重きをなした。句は、浅瀬に乗り上げた舟を詠む。「砂の音」が「夜寒さ」響きあって、鳥肌が立つような一句。(m)
秋川になげる投網の光かな 中勘助
打たれた投網がきらきらと光っている。「水澄む」という秋の季語と響き合って美しい秋の川が描かれた。投網ににかかっているのは腹に赤みを帯びてやや黒ずんでいる産卵期の鮎であろうか。
新涼やはらりと取れし本の帯 長谷川櫂
読んでいるうちに本の帯が落ちたのだろう、気にしなければどうということもない本の帯ではあるが、人によってはそれなりに煩わしいものかもしれない。「はらりと」というオノマトペが「新涼」と響きあう。
蟾蜍(ひきがへる)長子家去る由もなし 中村草田男
「長子」は長男。「由もなし」は理由もない。つまり、家を出たいのだが、家を継がねばならない長男としては、家を出て行くまっとうな理由もない、長男は家という桎梏から逃れられない、ということ。
それが、「蟾蜍」とどう響きあうのか、「家」という重圧に踏み潰される長男いう宿命が、あの「蟾蜍」に象徴されているということであろうか。理屈では読み解けないのが、この種の取り合わせの俳句である。
待ちかねし喜雨が集中豪雨とは 渡辺文雄
待ちに待った恵みの雨が「喜雨」、涼しさをもたらすばかりでなく、農作物にとってもかけがえのない雨である。なんでもそうだが、ものにはほどほどという加減が大事、「喜雨」も集中豪雨になっては元も子もない。今年もまた日本の各地で天の底が抜けたような雨が降った。これもまた、地球温暖化によるものか。
句は「待ちかねし喜雨なれども、集中豪雨になってしまった」という逆接の形、末尾の「とは」は、驚きや感動などをあらわす言葉、この句の場合は「とは無慈悲なことよ」くらいの意味であろう。
虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯 杉田久女
激しい句である。虚子によって「ホトトギス」を除名された久女、一方長谷川かな女は、婦人会のリーダー格として活躍を続けていた。まさに、嫉妬。俳句はこんな風に露骨に詠んではいけないと教えられるが、何十年かの歳月を経るとこういうのもまた味わい深い。師に見捨てられても、久女の俳句は今でも残り、多くの人の共感を得ている。師を選ぶことも大切であるが、師に見切りをつけることも大切なことかもしれない。季語の「ひとへ帯」が女の意地を象徴する。『杉田久女句集』