卓袱台は和室で使われる比較的小さな食卓、句に読まれているものは脚が折りたたまれるものらしい。これもまた、失われつつある光景である。
カテゴリーアーカイブ: 一句鑑賞
吹きおこる秋風鶴を歩ましむ 石田波郷
「歩ましむ」の「しむ」は使役の助動詞。「何々させる」という意味になる。したがって句の意味は「秋風が鶴を歩かせている」ということになる。実際には、秋風が吹いて、それで鶴が歩いているわけではない。しかし、「歩ましむ」といわれてみると、秋風にそこはかとない力を感じるから不思議である。
蘆刈りの人現はれて帰りけり 高浜虚子
蘆のなかから鎌を持って突然現れたのだろう。「現れて」という平易な表現にちょっとした驚きがある。「帰りけり」は驚きの心が静まるような描写。帰りゆく人の後姿にに郷愁のようなものが漂う。あたりはもう暮れかかっている。
ものいはぬ男なりけり木賊刈 蓼太
木賊を秋に収穫するのは茎が充実しているから。乾燥させて床柱や家具を磨くのに用いられる。蓼太の句、もくもくと木賊を刈っている老人。わが子と生き別れになった能『木賊』のイメージと重なる。「ものいはぬ男なりけり」というぶっきらぼうな描写が味わいの一句。
野菊摘み来世は父母に甘えたき 菖蒲あや
この世では甘えることができなかったということ。幼いころに死に別れたのかもしれない。摘んだ野菊は父母の墓に供えるのだろう。
いつの日か庵むすばん草の花 小寺敬子
女性が「庵むすばん」といえば、尼さんなりたいということ。草の花のようにささやかに生きたいという。男を静かに拒絶しているようでもある。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 蕪村
保元・平治の乱に想を得たとされるが、保元平治の乱は鳥羽上皇崩御を機に起こっている。この句の場合の「鳥羽殿」は建物の鳥羽離宮のこと。野分の吹き荒れる中を急ぐ騎馬武者、戦国絵巻のようである。現在から遠い昔をみはるかすのではなく、いきなりその世界に足を踏み入れて句を詠んでいる。
山も庭に動き入るるや夏座敷 芭蕉
那須の門人秋鴉を尋ねての挨拶吟である。青々と茂った山がまるで津波のように庭に押し寄せてくるようだという。「動き入るる」が豪快。『おくの細道』での一句。
紅さいた口もわするゝしみづかな 千代女
「さいた」が難しい。「紅が咲いた花のような口」とも読めるし、「紅を差した」とも受け取れる。口びるの紅を忘れるほどおいしい清水なのであろう。がぶがぶ飲んで、すっかり紅が洗い流されたかもしれない。
鮎食うて月もさすがの奥三河 森澄雄
鮎は、夏の川魚を代表する魚。いったん海に出た稚魚は五月ころ産卵のために遡上を初める。産卵した鮎の多くは死んでしまう。それゆえ鮎は、年魚ともいわれる。句の奥三河、鮎の味も格別なら、山の端に出た月も見事なのだろう。
おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな 芭蕉
鵜舟の先に鵜篝をたき、鵜匠と呼ばれる漁師が鵜を操って鮎をとるのが鵜飼。鵜が呑んだ鮎は鵜縄を引いて吐かせる。考えてみればけっこう意地の悪い鮎漁ともいえる。句の「悲しき」は、丸呑みにした鮎を吐き出さねばならない鵜を思ってのこと。俳句では珍しい心の時間的な移ろいを詠んだ一句。
水馬青天井をりんりんと 川端茅舎
飴のようなにおいを発するので、アメンボという名がついたらしい。六本の強靭な脚で水面をすいすいと移動する。句は、水馬が、水に映った青空をりんりんと動き回るさまを詠んでいる。「りんりん」は、すばやい動きであり、勇ましい様でもある。
田一枚植ゑて立去る柳かな 芭蕉
「植ゑて立去」ったのは柳ではない。また、立去ったのはそこに居合わせた芭蕉自身との説もあるが、芭蕉が田を植えたのでなければ辻褄が合わない。芭蕉が、奥の細道の旅の途中で田植をするというのもずいぶん酔狂な話。立去ったのは百姓か田植女であろう。植え終わった田に映る柳が美しい。西行ゆかりの遊行柳である。
青梅の臀うつくしくそろひけり 室生犀星
若者の未熟さを指摘するのに「尻の青いくせに」という言葉がある。幼児の尻が青みがかっていることのたとえであるが、句の「青梅の臀(しり)」がなんとなくそのことを想像させるのは、青梅がまさに未熟な梅であるからに他ならない。未熟な梅の尻であるがゆえに「うつくしく」という形容も成り立つのだろう。ちなみに、熟しかけて黄色くなった梅は俳句では「実梅」といって「青梅」とは区別する。蛇足ではあるが「実梅」の尻もそれはそれで美しい。
伽羅蕗の滅法辛き御寺かな 川端茅舍
伽羅蕗を作るには、長時間の煮炊きに耐える固めの蕗を使うのが大切。普通の蕗料理では皮を剥いてから煮炊きをするが、伽羅蕗の場合は皮を剥かない。皮を剥いた柔らかい蕗ではとろとろになってしまうのだ。葉が虫に食われるころの蕗がちょうどよい。梅雨に入る少し前くらいの山の蕗である。句の伽羅蕗、赤唐辛子を乾燥させた鷹の爪をたくさん入れて炊いたものだろう。「滅法辛い」がゆえにうまいのである。
骸骨の上を装ひて花見かな 鬼貫
前書きに、「煩悩あれば衆生あり」とある。普通なら「衆生ありて煩悩あり」なのだろうが、「煩悩」あるがゆえに「人」なのだ、と言いたいのだろう。句の「骸骨の上の装い」も所詮は「煩悩」、いささか哀れな花見である。
花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉
上野の梵鐘は寛永寺。浅草の梵鐘は浅草寺。聞いているところは芭蕉庵(深川)である。現在の騒音事情ではとても聞こえるものではないが、貞享・元禄のころは聞こえたらしい。江戸の下町がどんなににぎやかでも、大鐘の音を掻き消すほどではない。閑静な時代の一句。
落椿挟まるまゝに立て箒 鈴木花蓑
春を代表する花であるが、梅や桜が葉にさきがけて咲くのに対して、椿は緑濃い葉叢に真紅の花を咲かせる。枝を離れても花の原型を止めてうつくしく、落椿としてもめでられる。句の落椿、立てかけた箒にひかかっったもの。来客の目を楽しませるために、わざとそうしているのかもしれない。
方丈の軒をこぼれてさへづれり 長谷川櫂
「方丈」の「方」は四角形の部屋を意味し「丈」はその長さ(約1.7メートル)を表す。したがって、方丈は1.7メートル四方の部屋あるいは建物ということになる。禅宗ではそこで住職が寝起きしたことから、方丈は住職の呼称にもなっている。句の「方丈の軒」、良寛が棲んだ五合庵のようなところであろうか。「こぼれる」はありあまって器からあふれ出ること。小鳥がこぼれ囀がこぼれ、そして春の光がこぼれる楽しい「方丈の軒」である。
春宵や下ル上ルの京の町 みつ
2014年のネット句会の作品である。京都の番地表記をたくみに俳句に取り入れた一句。「春宵」という季語がよく効いている。