花瓢(ふくべ)は瓢箪の花のこと。今時は瓢箪の棚に実も花も目にすることができる。
句は、酒宴の前の一風呂を詠んでいる。同じ作者に「若竹や一風呂といふよき言葉」という句があって、それを享けてうまれたような一句である。
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脱ぎ捨ててひとふし見せよ竹の皮 蕪村
命令形の俳句である。若竹に成長しつつある竹を人に見立てて詠んでいる。「脱ぎ捨ててひとふし見せん竹の皮」という願望の形よりもさらに強い思いが現れる。「竹の皮」に呼びかけているような俳句だが、「ひとふし見せよ」といわれているのは若竹の方、本来の主体であった「若竹」が「竹の皮」に置き換えられている。「皮脱ぎてひとふし見せよ今年竹」が穏当な形だが、座五に「竹の皮」とおいたことで句にねじれが生まれている。理屈を一跨ぎした詩情であろう。
植ゑ終へし田に白鷺の夕明り 本宮哲郎『鯰』
「白鷺の夕明り」が味わい深い。暗くなってきた植田に真白な鷺が影を落とす。写生句のようでありながらも「夕明り」がややあいまいな描写、そのあいまいさに抒情が宿る一句である。
ささやけばささやきかへし巣の燕 長谷川櫂
誰がささやいて誰がささやき返すのか。子燕がささやいて親燕がそれに応えるようにも読めるが、餌の虫を親から貰うために他の雛たちと鳴き声を競い合う子燕である、およそ「ささやく」とは縁のない騒々しさ。子燕のささやきでないとしたら、ささやいているのは人間のほかはない。女の子だろうか、子燕を驚かすまいとして、「ほらあそこに燕の巣がある」とささやいたのかもしれない。母親はどんな風にささやき返したのか、想像のふくらむ一句である。(季語=燕の子、季節=夏)
感想12
78 姉のゐて妹のゐて桃の花 3 さだ子
「桃の花」が雛祭を連想させます。もう少し突っ込んでもいい。
姉いもとゐても寂しや桃の花
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95 川土手を這ふやうにして土筆摘む 0 白雲斎
「這ひつくばうて」くらいでしょうか。
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96 春蘭や竹のふれあふ音のして 1 弥生
季語を変えてみたい。
田楽や竹のふれあふ音のして
花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉
上野の梵鐘は寛永寺。浅草の梵鐘は浅草寺。聞いているところは芭蕉庵(深川)である。現在の騒音事情ではとても聞こえるものではないが、貞享・元禄のころは聞こえたらしい。江戸の下町がどんなににぎやかでも、大鐘の音を掻き消すほどではない。閑静な時代の一句である。
淡雪やいくたび浮むかいつぶり 長谷川櫂
かいつぶりの漢字「鳰」は、水に入る鳥を意味するという。ぎょろりとした目がやんちゃ坊主のよう、魚類や貝類などを捕食するため、潜水を得意とする水鳥である。句は春の雪が降る湖沼を描いている。潜っては浮かび、浮かんでは潜るかいつぶり。まるで水底に棲家があって、浮かんでいるのはちょっとした気まぐれのようでもある。もぐったままなかなか姿を現さないかいつぶりが気になっているのかもしれない。『古志』
草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 芭蕉
芭蕉が曾良をともなって「奥の細道」の旅に出る際に詠まれた。草の戸は深川の「芭蕉庵」。住み慣れた草庵を女の子のいる家族に譲って「さあ、旅立とうぞ」という一句。芭蕉が「奥の細道」に旅立った元禄二年は閏正月のある年で、旅立ちの日の三月二十七日は、今の暦で五月十六日になる。『奥の細道』
雪解川名山けづる響かな 前田普羅
雪解川になすすべもなく削られる名山。しかし、削られることで、山は益々厳しい威容をなし、名山を名山たらしめる。前田普羅は、山を愛した俳人。関東大震災で家財一切を失ない、報知新聞富山支局長として富山に移り住む。句は富山に移る以前のもの。
感想05
25 招かれて木の香新し春障子 花筏
誰に招かれたのか、そっちの方が大切。
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26 モノクロの庭に残りし冬薔薇 朗然
「モノクロ」が言いすぎか。
庭に色ぽつりと加へ冬薔薇
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28 どんどの火付け新しき風を呼ぶ 宝船
「風立つ」がいい。「火付け」と季語を説明しない。季語は単独でぽつんと置く呼吸。
新しき風立ちにけりどんど焼
感想04
19 水面蹴る鯉のはやさや冴返る 正男
「水面蹴る」が鷺や鴨のようです。「餌を狙ふ鯉のはやさ」とか。
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21 日は雲へすとんと午下の寒さかな さだ子
「午下(ごか)」がなじみの薄い言葉。午後でいいのでは。「すとん」という擬態語が適切かどうか。
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22 旅衣解きて山茶花はらりをち 松の
季語に説明を加えず、「山茶花や」とぽつんと置く。
山茶花やはらりと解きて旅衣
真青な木賊の色や冴返る 夏目漱石
「研ぐ草」から木賊(とくさ)の名がついた。年中生えているが、研磨材として秋に刈り取るので秋の季語となっている。この句の場合は「冴返る(初春)」の働きが強いので木賊は季語としては働かない。「真青な木賊の色」わざわざいう必要もないあたりまえのことであるが、春の寒さともあいまっていつもより色鮮やかに見えたのだろう。上五中七の説明的な描写を支えられるのは、「冴返る」という動詞を含んだ季語ゆえである。
冬つばき世をしのぶとにあらねども 久保田万太郎
「世を忍ぶ」は世捨て人になるということ。したがって、「世をしのぶとにあらねども」は、世捨て人になったわけではないが、ということ。冬つばきが咲くひっそりとした佇まい。
届きけり霰ちる日の蕪寿し 飴山實
蕪寿しは、輪切りにした塩漬けの蕪に鰤の切身をはさみ、馴れを促進させるため米麹と一緒に漬け込んだもの。金沢や富山など北陸地方の名物で、もともとは年賀の客をもてな すためのものであったという。
句の蕪寿し、霰の降る日に届いたという。霰のころがよく馴れておいしいのだろう。「届きけり」と冒頭から結論が出て、うれしさがにじみ出る。
すき焼や浄瑠璃をみて泣いてきて 長谷川櫂
泣かされたのは近松の世話物だろうか。大いに泣いて、すっきりして、すき焼きがいくらでも食べられそう。
俎板に畏まりゐる海鼠かな 葛西美津子
「畏まる」は目の上のひとをおそれ敬う気持ち。海鼠の単純な形状が、頭を下げて身を縮めた人間の畏まる様と似ているということだろう。殊勝な海鼠である。
是がまあつひの栖か雪五尺 一茶
文化九年(1812年)の暮の句である。江戸での生活に困窮した一茶は、弟仙六との遺産分配の話がまとまり故郷の柏原に戻ることになる。翌々年には五十二歳で若い妻を迎え、北信濃での俳諧師としての地位も定まる。句は、この雪深い柏原の地に骨を埋めようというもの。これからここの生活がどうなるのか、という不安ものぞく一句である。
縫ひ疲れ冬菜の色に慰む目 杉田久女
縫い物をしていて目が疲れたというところ、目をあげると、笊に入った冬菜が目に入ってきた。縁側にでも置かれた冬菜だろうか。「慰められる目」と受身にしなければおかしな感じ、読んでなんとなく違和感を覚えるのはそのためだろうか。
感想05
21 ふるさとに似たる山河や齊粥 2 みつ
「薺粥」がいいですね。
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24 冬鴨の光の粒を曳きて来し 5 あや
いただいた一句。「来し」が要らないでしょうか。「初鴨の光りを曳きて着水す 横山美代子」などがあるように、少しパターンかもしれません。
冬の鴨光の粒をさはに曳き
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27 枇杷の花番犬いつか居なくなり 2 なずな
この句も少し思いを入れて、
この家の番犬どこに枇杷の花
長生きも意地の一つか初鏡 鈴木真砂女
「初鏡」という季語は、どこか華やいだ雰囲気を持つものだが、真砂女の句にはそんな雰囲気はない。「長生きも意地の一」と老いを開き直っている。誰に対する、何に対する意地なのか、その辺はあきらかではないが、どうとでも想像できる一句である。