コメント

自由にコメントしてください。 — 1,144件のコメント

  1. 21 あやめ田に昆虫写しをる子有り を投句いたしました渡辺容子です。
    先生の、「あやめ」か「昆虫」か「子」か、焦点が定まらない。というご指摘、確かに!と思いました。本当に、17文字で自分が言いたいことを人に伝わるように表現するのは難しいですね!
    先生の、皆さんの句への批評に学びながら、がんばりたいです。
    21の句は、菖蒲園に小学生の集団が先生と写生に来ていて、皆一生懸命あやめを描こうとしているのですが、一人の男の子があやめに目もくれず、昆虫を写生していたのが微笑ましくて作りました。我が道を行く少年が、主眼でした。

  2. 73番の句
    幼子(子か、孫か)が夏の庭で、無心になって泥団子を作った。
    夕方、雷鳴とともに驟雨が来て、泥団子ははかなく溶け去ろうとしている。
    泥団子のはかなさが、子どもが無邪気で土遊びに夢中になれるほんの一時期(すぐに成長して次の段階へ…)と重なり合って、せつなさのようなものを感じました。勝手な解釈ですが…

    • 渡辺容子様

      素敵な解釈ありがとうございます。
      子供たちの元気な様子と夕立で崩れ去る泥団子のはかなさがの対比が分かっていただけて良かったです。

  3. 73  夕立ちや三つ並んだ泥団子

    良く分からないとの事、説明させていただきます。

    公園の砂場に子供達が作った泥団子が並んでいる様子です。
    それまで一生懸命作ったのに夕立で慌てて帰宅したのでしょう。
    せっかくの泥団子が崩れてしまうなあと思いました。

  4. 松太先生
    いつもありがとうございます。拙句「湯治場のこの身に余る浴衣かな」を先生は「この身に足りぬ」がいいと添削してくださいました。確かに添削後の方がのびやかで明るい感じの句になりますが、実際はやせっぽちの私には浴衣が大きすぎて体が中で泳いでしまう状態なのです。こんな場合も句のイメージを優先した方が句としてはよろしいのでしょうか。または句自体を没にした方がいいでしょうか

    • 俳句は作り出すもの(創作)と考えるべきです。
      芭蕉の句にはその意識が強く、何度も何度も作り変えています。
      目の前にある事象を正確に写すのが俳句(写生)という考え方が一般的ですが、それでは俳句の世界が極端に狭くなってしまいます。

      • 松太先生

        ありがとうございます!
        俳句というものの捉え方がまた一皮むけた気持ちです。

  5. 9 「姉妹とも見ゆる親子や花菖蒲」
    先生の「生活感のある季語を」というご指摘ですが
    この句は岩手県の「毛越寺」庭園の花菖蒲の立ち姿とそれを巡る人々の写生です

  6. 129図書室の重き台車や→「台車きしむや」きしむという語が浮かびませんでしたが、「う~ん、なるほど」。ここではそちらがいいように思います。ありがとうございました。

  7. 燈穂です。
    →去来の句 「湖の水まさりけり五月雨」
    頭に引っ掛かっていたのですが、主宰のコメントで思い出しました。
    そうでした、去来の句にありました。

  8.  山笑う雲取めざすスクワット  木根川八郎  0

     意味不明。

    お世話様です。
    木々が芽吹いた山々を見て、日本百名山の雲取山(東京都で一番高い山で、雲取と通称している)に登りたいと思い立ち、まずはスクワットをして登山に耐える足腰をつくろうと思った次第です。

  9. 松太先生いつもありがとうございます。
    拙句「踏青の先に国境カモメ鳴く」について。数年前に根室半島のアイヌの遺跡を歩いた時の光景です。青草の中、丘を登りました。登り切った先にはロシアとの国境が見えるとのこと。(海上ですが)。国境は北方領土を指します。

小石日和 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

HTML tags allowed in your comment: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>